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数日前、臓器移植法改正についてテレビで話題になっていた。
報道番組では、移植を待つ親と、脳死(と判定されるであろう)子供を抱える親の両方を取り上げているが、はたしてどちらがよいのか、番組でも明確に意見が提示されなかった。
(テレビ局にもよるだろうが、たいがい政府の決定には否定的な意見が後から飛び出すだろうけど)
いろいろ意見は有るだろうけど、私は基本的に移植の可能性を拡げる方向に賛成だ。
生きると言う事は、社会的な生活をすることだと思っている。つまり、いっさい他人との関わりがない生き方と言うのは、かなり無理があるのではないかと思う。仙人のような生活をするとしても、それは自然との関わりがあっての物だと思う。
一方で、脳死状態というのは、外部との関わりが限りなく薄い状態であると思う。
それはそれで、(僕の考えでは)人としては不自然さを感じるのである。
僕は、もし自分がそのような状態になったとしたら、家族には何年間も無理させたいとは思わない。
最初のうちは無理と感じなくても、介護者は老いる。もし本当に目覚める見込みが無いのなら、それは判断を先延ばしにしているだけのことだろう。
もちろん、「奇跡」がおこる見込みも捨てたくないし、「誤診」をされて「殺されてしまう」のは怖い。
しかし、それは解決すべき課題であって、法律で縛る物ではないと感じる。
日本国内で移植の経験が無い事が、さらに脳死判断や移植手術そのものの正確性を損ねていると懸念している。
全然別の話だが、私の母が癌と診断されたとき、日本でかかった医者は声帯を切る事を提案し、台湾の医者は声帯を残した上で、癌を切除する事を提案した。日本の医者に技術が無かったのかどうか知らないが、選択肢をもっと提示できたのではないかと思う。
ちなみに、母は台湾で癌を取り除き、現在も元気に働いている。
海外に渡航できない人たちのためにも、日本での移植の道は開くべきだと思う。
ただし、延命を選んだ側が不利益を被る様な制度はけして作っては行けないと思う。現在の制度がどうかしらないが、例えば「延命治療を選択したら、保険が効かなくなる」といった制度はけっして作ってほしくないと思う。
ブログでこんな話題は殆ど触れてこなかったが、病気と死、子供、ってのは案外身近な事なので、あえて題材にしてみた。